やじさんの番組案内 元日赤の従軍看護婦だった  杉山 きよの さん
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やじさんの番組案内
元日赤の従軍看護婦だった  杉山 きよの さん
                
 「従軍看護婦」制度は、日本では明治20年代から始まったようです。 中心になったのが日本赤十字社の看護婦養成所で、ゲストの杉山 さんのお話のように、3年間の教育があり(第2次大戦中、速成の ため2年間に短縮された)、卒業後は応召義務が課せられて、陸軍 病院等に配属されることになります。また、初期は、国内勤務だった ようですが、第1次大戦頃から病院船への乗り込みや外地勤務も 始まったようです。

 杉山さんは、秋田県横手市の出身で、体が弱かったお母さんを助け たいと看護婦を志したそうです。しかし、看護婦養成所を卒業すると 間もなく召集令状(赤紙)が来て、広島、呉での訓練を経て、昭和17年 から病院船勤務になります。病院船とは、外地から傷病兵を乗せて 国内の陸軍病院などへ運ぶための船で、杉山さんちも、一度に千人 もの傷病兵の世話をしたそうです。

 戦況が厳しくなり、病院船の運航も十分できなくなって、杉山さんは 台湾勤務に変わりましたが、飛行場に隣接した病院には傷病者が 溢れ、マラリヤ病が流行る中、爆撃を逃れるため小学校などへの 避難と復帰を繰り返し、医薬品の使用も制限されるなど、苦しい 看護を続けたそうです。

 戦後、杉山さんが故郷に戻った時には、お母さんはすでに亡く、 親孝行出来なかったそうです。戦後すでに60年以上を経ましたが、 悲惨な日々は、昨日のことにように思い出されるそうです。 「戦争は、絶対にやってはいけません」と、おっしゃる杉山さんの 言葉に、重いものを感じることでしょう。

 
                             
                                                           written by yaji

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