陸軍中野学校でタイピストをされていた 大和 静子  さん <style type="text/css"> <!-- body{background-color="#ffffff";} .sanpo { margin:40px; margin-right:150px; margin-bottom:10px; margin-left:15%; padding:20px; background-color=""; } {td font-size="2":} --> </style>
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やじさんの番組案内
陸軍中野学校でタイピストをされていた 大和 静子  さん   

 スパイやゲリラ戦などの要員養成が目的だったため陸軍中野学校の 資料は、敗戦時に殆ど焼却処分されたため全貌が分かりにくいようです。 中野学校の生徒は兵隊なのですが、存在や役割を隠すため、軍人っぽく なくて軍隊経験のない大学出身者が多く、比較的自由闊達な雰囲気で、 また全員平服の黒っぽい背広姿だったようで、大和さんによれば「からす 兵隊」などと呼ばれていたそうです。 任務に就く命令=”出世”が決まると、10名ほどいた女性職員も入れた 送別会が開かれ、赤ワインで乾杯して、元気に送り出していたそうです。

中野学校の前身は昭和13年に九段に設立された後方勤務要員養成所で、 翌年中野に移転し、15年に陸軍中野学校と改称されました。大和さんは、 タイピストとして中野に勤務し、先生が書いた原稿をタイプし、印刷に回して テキストを作る仕事をしていたそうです。軍関係の仕事なので食糧には 困らなかったそうですが、東京大空襲で幡ヶ谷の実家が丸焼けになって しまったとか。 学校は、空襲が激しくなった昭和20年春に本体が群馬県富岡町に移転。 大和さんは、後にできた石神井分校で終戦を迎え、資料の焼却などを やったとか。ご主人とは、隊長の斡旋で結ばれ、中野学校の生徒さん だったそうです。

90才になったとおっしゃる大和さんは、今は折り紙の達人になられ、毎日、 西部地域福祉センターに出かけて、折り紙づくりを教えているそうです。 末ながいご活躍を期待しましょう!

 written by yaji

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